「哲学の慰め」

哲学の慰め/ボエティウス

 

 原始的な哲学のフォルム。これ一冊あれば人生とりあえずオッケー!みたいな、人間が生きるために求めている実際のものが悲壮な濾過を経て結晶化された粒。それはつまり、筆舌に絶する著者の精神的‪危殆‬の波濤のみだれとうずとがひとりでに争ったすえ、泥中から手を伸ばすようにして掴み取られた神聖であることを包含する。哲学は神秘体験だ。暗闇のなかから簡潔な文言がひかりを纏って現れる、人工的な神秘体験。ひとりきりの対話。真空のカーテン、この時ばかりは沈黙して場を譲る世間たち、そしてほんの少しだけ貌をだす、摂理。私たちは生きるために信じたい。信じるという純潔を通して、煩雑とした次元から隠遁している純潔の世界のほねぐみへ触れたい。はだかの世界とはだかの自己とを対面させることで穢れを浄化する儀式が必要だ。生きることはよごれている。

 哲学の擬人が女神───女である必要は? 哲学は本質上人を慰めない。けれど人は哲学によって慰められる。叱咤という後味を残すにせよ。それは、皮相を剥かれてみずみずしい果実として現前する本質の、羞じらいがちな真理のうつくしさが、存在をより存在させるから。際立った簡潔な存在はそのうつくしさで人の心を結果的に慰める能力を持つ。あまりにうつくしいから、私たちはそれがうつくしいことにも気付かず、ただそよ風と後光の心地好さとして感ずる。

 私たちが必要なもの。信じること。信じる対象。信じれるものを信じているという安心感。精神的に開かれている世界。風通しの良い書斎。身丈をあわせて、袖を通して、脊椎までそれと同化してしまうための精神的なよそおい。

 第一の施術は、幸運と摂理の切り離し。お前の眼目がふしあなだったと知れることはなんてさいわいだろう。第二に、善と悪の天秤の調整。善悪の向こう側を透かして見ると、そこには自由意志へ帰着するさいわいの導線が匿されている。第三、自由意志の独立。つまるところ私たち、ずうっとこれを人類最大の秘術として心臓のさらに心臓の隠し棚に収めていた。2千年以上、ずっと。その秘術に際しての疑問はある、お前の神聖はどこの支流から引き継いだ神聖か?それをまったくお前のものだと言い張ることは、果たして正しい? ところで、その神聖をお前個人に還元するとして、それはどの程度の強度を持ちうる? 有限者の驕りではなく? お前の神秘はいっこうに真だ。しかしその余分に生えた枝は、お前の生命分しか表してない。